映画は芸術だと言い切れば、芸術は人間が美しいと感じる肉体の諸機能で体感する意思表示のとても強い地上で生命に取り入れるべき物質に向ける空想を形骸化し、実際にそれを人工的に作り上げた創造物であるから、映画を見に行く理由と言うのは精神滋養になる芸術的な創造が映画には題材から含まれていると言う事なのである。

有名なカンヌ国際映画祭を含む世界三大映画祭が行われる程映画は広く人に魅せるものであるから、面白半分のイグノーベル娯楽とはこれはちょっと違う様である。

勿論娯楽としてのコミカルな映画作品も沢山あるのだが、大衆向けの喜劇など昔の寄席の日常風刺的笑いを引きずったルーズな暇潰し行動として、これもまた家庭のテレビ放映を観る以外の大衆酒場と同じ並びとして偶の気分転換に向かう場所になる。

しかし後者の娯楽映画では恋人を先ず一緒に誘うムードでは無いだろうし、やはり人間として誘い合って場内一致の感激を味わいに行くのは映画の芸術作品クラスの部門だ。

映画の芸術性が人間の官能に触れるとは手に汗を握り、涙を流す様な官能に当たる軽い次元の表現なので何も男女で頭がくらくらする程の刺激と言う意味では無い。

人の生の五感に落ち着いて迫るロマンチックなものだと言う事だ。

映画館のロマンチックな雰囲気は視覚、聴覚、席の座り心地の触覚、軽い飲茶の味覚、隣に恋人や仲間の座る人いきれの嗅覚、しかし実際には国際評価を受けた日本映画のストーリーは少々陰性の気難しいものも多いのである。

シェークスピアで無ければ考えない様な話の筋書きも風土の四季の荒さに寄る日本特有のものなので、定年退職をする組の人生総纏めの様な鑑賞は別として幅広い年齢層には陽性の欧米作品がたっぷりある。

異性欲に柔らかい奔放さを持つ作品に女性を誘えばもうお付き合いの雰囲気は蕩けてしまう。

映画の芸術としての完成度は映画祭で官能的にも高い評価を受けたものからそれを認められるだろう。

企画される映画の題材は創造される雰囲気として人の五感に広げられ、つまりその一流の演出が映画にはたっぷり含まれているのである。

人が人生と言う日常生活を積み上げる過程で達成感を得られる良い結果論、失敗と言う良くない結果論を出しその示唆が映画化され鑑賞した者に一つの教養を与える効果を映画は含んでいる。

少し古い作品だが地獄門や楢山節考ではストーリーの流れの示唆は日本の山地急流的だろう。

教訓として難しい災害対策を考える人の頭の集中度を増すのに鑑賞すれば大変良い。

深刻編はともかく映画鑑賞に初心者が行くなら入門編としてスピルバーグ監督のものが丁度良い位かも知れない。

優秀でも深刻ではないコミカルさを伴う。

この様に映画は人の精神を緩めも引き締めもするのだ。

ロダンの考える人の彫像など人生考えて生きる事を不真面目な人に気付かせるのに形骸が良い。

日頃は引き籠りで過ごす人の部類でも何を映像作品として教養に取り入れるかで、その思考力の差も出るだろう。

文学は文字を追うと同時に読者は自分の脳で情景を立ち上げるが、それを実際の映像として一流の映画監督が目の当たりとするシアターを仕事帰りの人の世の一角に出現させてくれる事は凄いものだ。

学校のスライドやビデオ授業とは音響の包みが違う次元の展開だ。

暗闇に配役を現わす現世の光が宇宙の恒星の様に立ち上がる。

映画は宇宙と言う雰囲気を含んでいる。

地上に有ってこれは音と光の素晴らしい幻の宇宙だ。

映画は宇宙の一端では無い。

それは人間からは宇宙が見えないからだ。

宇宙をその中に含んだ映画の存在を提唱する。

職場デスクの並ぶ殺風景な閉塞空間を飛び出し宇宙の現象であるストーリーを纏め上げた人間の姿に美しさを映画として観に行くのだ。

宇宙の暗闇に立ち上がる光の美で人間が五感の協賛性に至るこの流された宇宙エネルギーの形骸が地上の芸術と言うものだ。